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次へ進むために振り返る その3

その1その2の続き。2009年に考えたことを思いつくままにメモ。

仕事について。

私にとって、人との関わり、顔を合わせて話し合ったりすること、は無くてはならないとても重要なことだった。外注として、自宅で作業して、やりとりはメッセとメールで、必要なときだけ打ち合わせに参加して、っていうのだと、一緒に何かを作り上げる感じが薄くて達成感どころか関わったかんじもすごく薄い。同じ場にいて、同じ空気を感じたいみたい。

ひとりでやってると、どんどん取り残されていくような感じがして、自信がなくなる。

いちばん好きなことを生業とするのがいちばんいい。そうは思うんだけど、お金とのバランスも大切。食べていけるだけのお金が稼げなかったらやっぱり厳しいし、かといってお金に困らなければ自分で稼がなくてもよいのかというと、そうじゃない。たぶんそれだと引け目を感じてしまう。稼いだお金で心置きなく映画みたり本買ったりコーヒー飲んだり美術館に行ったり旅に出たりしたい。

いまはフル稼働してなくて、力を持て余してるようなかんじもする。手を抜いてる、さぼってる、逃げてる...? でも前みたいに稼働してもつかといったらどっちかといえば自信ない。働いてる人たち...通勤してたり、ランチにくるOLさんやIT業界っぽい人たちの話の断片、Twitterで垣間見える頑張ってる様子、を見てるとみんな偉く見える。会社が恋しいような気もする。でもそれも違うのだろう。

このお店で働いて、良かったことはたくさんあるけど、いちばん大きいのは、人に会えること。会える人の年齢や職業や喋る言葉やいろんな幅が前より広くなった。常連さんもそうだし、あとは、会いたい人に気軽に「来てね」って言えるしお店だから気軽に来てくれるのもうれしいこと。
もちろん、お皿を持っていった時の、「うわぁ!」って言ってパァァって輝く顔とか、満足そうにおいしかったって言ってくれる時の顔とか、大好きだし、近所の常連さんと道で会って一言二言挨拶するようになったのもうれしいし、おいしいものの情報とかフランス語とか、いっぱいある。

個人でお店を経営するということ。見えなかった大変さの部分がすごく見えてきた。勤務時間の長さや睡眠時間の短さや税務署関連の事務仕事や年金や退職金で会社勤めよりずっと不遇な件。Sトミさんは、よっぽどの覚悟がないとできないよ、でも雇われて働くのはもうしたくないし、それでもこの仕事が好きだからやってられる、って言ってた。わたしは...どうなんだろう。

広報担当的にTwitter導入させてもらったり、というわくわくすることもできたし、Twitterで触発されてこれやってみたいな!ってことがでてくるたびに話して、できるなら別にやってもいいよ、みたいに言ってくれててすごく感謝しているのです。でもあるときのやり取りで、ああ、なんかわたしひとりで勝手に盛り上がって結局のところ邪魔してたうえにそれを指摘しにくい状況を作ってるただの扱いにくい人だったっぽい(それも結構長い間、わたしだけが気づいてなかった)...! って、サーって血の気が引いた。大好きなお店なので邪魔はしたくない。協力したいって心から思ってる。だいじょうぶ、わかってるよ、って言ってくれたけど。わたしはただ、繰り返し来てくれるお客さんを増やすには、どんな切り口でもまずはたくさんの人に知ってもらうのが重要なんじゃないかって思っただけなんだ...。

生活について。

こんな生活をしたい。っていう幻想が大きすぎて自分の首を締めてたのかもしれない。身の丈に合った地に足の着いた、ていねいな暮らし。それは朝ごはんを作って一緒に食べるとか、できるだけ毎日掃除をするとか、バランスの良いごはんを日々工夫して作るとか、使う道具も厳選してお気に入りのものを選ぶとか。いままで仕事すなわち人生だったからできなかった分、憧れが強すぎたのかも。それで現実とのギャップに勝手に苦しんでたんだきっと。

妻だからこうしなきゃ、という既成概念に、自分は思ってる以上に囚われているんだなと感じた。誰かと共同生活するのは実家以来のことなので気を遣いすぎて相手の顔色を伺うようになって些細なことを気に病んだり。役割分担についてきちんと話しあっておくべきだったし、お互いの状況が変わるたびにそこは確認すべきなのかもな。親からみると、奥さんなんだからこれとこれはしてあげて当然でしょ、ってみえるみたいだけど、いや、別に夫婦によってそれぞれだしと思いつつもやっぱり、自分がだめなんだろうかと思っちゃったり。

んー。とっちらかってるけど2009年はこんなかんじでした。さて、それを踏まえて次は2010年。

インターネットがいまほど普及してなかった90年代後半、趣味の友達やバンドのメンバー見つけるのに雑誌の投稿欄とか楽器屋やスタジオに張り紙とかライブとかクラブでよく会う人と友達になって文通したりとかしてた。98年くらいからは個人サイトの掲示板とかでわいわいやったりして、そこから実際に会って遊んだり文通したりもあったし、それがはじまりでいまでは大切な友達になった人もいる。

2004年くらいからorkutとかmixiとかでコミュニティから簡単に趣味の近い人が見つかるようになって、それで却って踏み込んだ交流はできなくなっちゃった気がする。

でもTwitterだと、さらっと交流でもOKだしそこから一歩踏み込んで交流することもできて、それがすごくいいね。入れ物とか肩書きとかなくてフラットだから、多くの人はたぶん素に近い状態だし、その人がどこの誰で何歳なのかとかよりも、どんなこと言ってるのか、でつながっていける。こういう場がなかったら言葉を交わすこともなかっただろう人とも会話ができる。

ってことをさっきお風呂で考えてたんだけど140文字に収まらなかったのでここに書いておくよ。なむなむ。

その1の続き。

2008年6月に、退職することになったところから。
その3ヶ月前の、2008年3月に入籍してふたり暮らしをはじめていて、それもあって退職に踏み切れたと思う。ひとり暮らしだったらこのタイミングでは辞めてなかったと思う。そんなわけで、フランス家庭料理のカフェでアルバイトとして働きつつ、残りの時間を使ってウェブの仕事、っていう生活をはじめてみる。

カフェの仕事に慣れるまでは、ランチの時間帯終わって家に帰ったら夜まで爆睡してしまう日々だった。それまでずっとデスクワークだったからね。それに加えて、秋くらいまでは、習い事のバレエの大きな公演があって毎週末お稽古してたり、結婚式に向けての準備いろいろがあったりで、考え事する暇なんかないくらいの密度だったので、いつのまにやら薬も飲み忘れてたけどなんとなく大丈夫だったし、1度病院行くの忘れてそのままにしちゃったら、なんかそのあと行かなくなってしまった。そんなかんじで二足の草鞋生活を続けてた。2008年は大きな出来事が多かったな。

次の変化は、2009年6月ごろ。
ベトナム・カンボジア旅行(新婚旅行)から帰ってきてすぐ。絶望感と無力感に分厚くすっぽり包まれて孤立した。よくわからないけど毎日涙が出た。眠れない。湿疹。動悸。いなくなりたい。早く人生終わって欲しい。1週間くらいして、病院に電話で予約入れた。

その原因となるものについて考えてみたけど、もちろんいろいろ積み重なって絡み合っているわけで、ふたりで生活していくということ、妻とか嫁という未知の立場、社会との関わり方の変化、それらから出てくるこまごまとした沢山のもの。これら、みんなはきっと、孤独に乗り越えているんだと思うけど。わたしが弱くて甘いだけなんだろうなって心の片隅でずっと思いつつ、どうにもならなくて通院再開。殻に閉じこもって日々をやり過ごす。

そのころ、何人かの元戦友たちとのメッセでの会話。「鬱って診断されて、仕事減らしてもらってるんだけど...」「イヤイヤイヤイヤ!一刻も早く休んで!!」って強くすすめたり、またあるときは、「しっくりこないんだね?」「お金と、達成感と、生活リズムのバランスが難しくて。うまくはまらなくて、余った破片があったり、大きい穴があいちゃってるような、そんなかんじ。」なんて話をしたり。

はぁはぁ。けっこうエネルギーいるな。今日はここまで。続くけどたぶん次でおしまいになると思う。

2010年。去年は停滞していたので今年は次への一歩を踏み出さないと、というわけでそのために一旦さかのぼって整理しておく。

2007年5月。
心の調子がどうしてもおかしくなってEAPに相談したら、カウンセラーの人に力強く病院を紹介された。「自律神経失調症」って診断書を出されて休職し、通院することに。

仕事は好きだったし、有能な仲間たちを心から誇りに思っていたしそんな仲間に恵まれて本当に幸せだと思っていたし、自分たちは良いものを作っているという自負もあったし、力をあわせてなしとげたときの達成感は何にも代え難いものだったし、常により一層の高みを目指して充実した日々だった。って思ってた。でも、困難にぶつかったときに、同じチームの中で補いあって助けあって乗り越えていきたいところで、仲間同志で攻撃しあったり足を引っ張り合ったり、みたいになることももちろんあって、どちらかというと殺伐とした空気が漂ってることの方が多かった気がする。

すごく規模が大きな仕事をして感じたのは、なんだか手の届く範囲を超えすぎていて、人の役にたっている感じはないし、直接クライアントと接する機会も少ないから、余計にそうで。喋ってる言葉が、自分の言葉じゃなくて借り物みたいな気持ちにもなった。全部受売り。

必死にもがいてなんとかギリギリのところで追いついてもそれは当然のことで、常にそれ以上のものを求められる、というのが公私ともに続いたら、あるとき、ふっ、と駄目になった。たいしたことじゃないのに涙が止まらなくなって、あーこれはもう、ちょっと駄目だなぁ、って思った。これがEAPへのきっかけ。

休んでいる間は、会社の人とはきっぱり連絡をとらないようにして、ブログやその他ネットでの活動も停止して、EAP隔週1回、病院週1回、というかんじで、あとは実家で療養して針仕事に精を出したり、自然のあるところへ行ったり。人がいっぱいいるところは恐ろしくて外出時は帽子で視界を狭くしてた。ちなみにこの間の日記や写真は、その後のMacBook HDD逝去により跡形もなくなったのでいろいろ思い出せない(DropboxやEvernoteを導入したのはそれよりさらにあと)。

2007年9月。
だいぶ回復してきて、自分でもカウンセラーの人も病院の先生も、そろそろだね、ってなってきたので、復職。勤務時間的には、最初の1週間は6時間勤務、次の1週間は7時間、次の1週間は8時間、というように徐々に増やしていき、業務内容は、自分が仕切らなくてもいいような、誰かの下について決められたタスクを淡々と行うのとか、毎月の決まった運用作業とか、そういうの。

さて、復職後の仕事なんだけど、負担を減らしてもらって助かったし、おかげで社会復帰できたけど、わたしここで何やってるんだろう...? っていう気持ちがずっとあった。この会社にいて、他のみんなは身を削ってがんばってるのに、わたしはこんなのらりくらりと、何の役に立ってるんだか分からなくて、達成感もなくて、惰性でここにいるみたいなの、何なんだろう、って。

いつも四半期とか半年ごとの目標設定のたびに、この先わたしはどうしていきたいんだろう、って考えるんだけど、会社の求めているものと、自分の興味のあることが、ぜんぜんうまく合わさらなくて、困ってた。わたしはもう、殺伐とした空気を生み出す方には居たくない。それより、人をほっとさせるような、和ませるようなことをしていたい。

2008年6月。
そんなことを考えていたときに、近所の馴染みの憩いのカフェで、オーナー夫妻に「わたしここで働きたいんですよー」ってぽろっと言ってみたところ、即座に「おいでよ!」って言ってくれて、わーっ、扉が開いた! 飛び込むならいましかない! って思ったのです。そのお店は、もう4年くらい通い続けてる大好きなお店だったし、夏バテで食欲ない時も、仕事で心がカサカサになったときも、いつでもおいしかったし、まるで寮の食堂みたいに親しく迎えてくれて、ほっとできる場所だったから。それにいつか自分のお店を持ってみたいなーっていう漠然とした夢みたいなものもあったから、こんなチャンスはもう2度とこないだろうと思ったのです。

はぁはぁ、力尽きた。今日はここまで。続きます。

夜更かし

[写真]月と夜空

なにはともあれ、週末がやってきました。MacBookに向かって夜更かし。すこしずつ取り戻してるかんじ。

うっかりした。felissimoで先月注文したねぶくろ、今月もいつのまにかそのまま継続で注文しちゃってた!ねぶくろ......。みのむしみたいな......。ふたつ重ねたらいいかも、と思ってたけど、家で使ってみたらひとつでも充分なかんじだったので、ふたつもいらないよ。困ったな。ところで先月来た色は、希望通りのチョコミントでした(やったね)。

マイコプラズマ肺炎が判明する前の菊地さんと、ラジオでひさしぶりの再会を果たす。熱に浮かされたトークによるジャズ番組。あーこういうのひさしぶりだなー。人生の先輩と、勝手に呼びます。こういうへらへらした、どうでもいいことをいっぱい知ってて、おもしろくて、この人はこの人だなあというような(でもじつはすごい)先輩がいるっていうのは、とても好いことだ。ところでNHKの「知るを楽しむ」という番組で菊地さんがマイルス特集をやるっていってたけど、本当ですか!

そういえばこのあいだ、夢の中で新曲が出てきた。そのときは、あ、これ夢だなってわかってて、起きてすぐ弾いてみよう、とか思っていたんだけど、そのあとまたぐっすり眠ってしまい、完全に覚醒したときにはもうすっかり記憶の彼方になっていたのでした。

人に対しての気の遣い方は人によって天と地ほどの差があって、人のこともまずは自分が遣う分を基準に考えるとしたら、組み合わせによっては大きなズレが出ることになるわけだよね。どちらともうまくやっていくには、どちら側に行くにしてもまずは自分からの歩みよりが必要なわけで、こればかりは試行錯誤を繰り返すしかないよねきっと。

何か言ってくれる人たちやよくしてくれる人たちがいるということは本当にありがたいことで、そういう人たちをもっと大切にしなくては。と今更ながらにしみじみ思う今日この頃です。

薬疹

以前にも一度行ったことのある中野の皮フ科へ(2006年5月24日の日記参照)。やっぱりこれどうみても薬疹だって!断言されたよ!先生、「日本語で書いとこうね。『薬疹』っと」といいながらカルテに大きく書き込んでいた。

ここのS田先生は、じっくり腰を据えて話を聞こうじゃないか、という雰囲気をたたえていて、それがなんともいえない安心につながるなあと、思った。今の状況を聞いてすべてを受け入れたうえで、諭すように話してくれるのです。近寄りすぎず、突き放しすぎず、丁度好い距離感で。一方、先日のN藤病院の先生たちみたいにぱっぱと診るかんじだと、さっさと終わらせたいんだろうなあ、と思ってしまうので、あんまり安心感はないのです。

[写真]yukopability

会社のホワイトボードに「yukopability」って書いてあった。これ、心臓と、静脈と動脈……かしら?

深夜まで作業。会社にいる時間が長くなればなるほど、カユミが増してくる。とくに太腿がカユイよ!ぎゃー!

閏ではない年

2月の最終日。今年は28日までしかないわけだけど、どうして2月だけが28日なんだろう。30日の月を7つにして31日の月を5つにするんじゃだめなんだろうか。そういえば子供の頃、お隣の家のお父さんが2月29日生まれだというのを聞いて、4年にいっぺんしか歳を取らないから、おじさんに見えるけど年齢はまだ12歳くらいなんだ、どうやって周りと折り合いをつけているんだろう、と不思議に思っていた。でも本当にどうするんだろうね。お誕生日のお祝いとか。

調べてみたら、今の暦は古代ローマ暦が元になっていて、古代ローマ暦だと2月が年末だったからそこで調整してるみたいね。でもアウグストゥスが8月を1日増やしたってくだりは本当なのかなあ。

それにしても近頃だいぶひどいです。どうしてこんなことになるんだろう、まったく。ばかみたい。でも、セレスタミンはわりに効きます。おなかと足がかゆかったけど、服用して2時間くらい経つと、かゆいのを忘れてました。悪いのは水星逆行のせいにしておこう。心穏やかに暮らせる日が来ますように。

魔利と明宏

河出書房の森茉莉ムック、全体的にすばらしいのだけど、とくに美輪様との対談が最高。

明宏
「ええ、それでね、やっぱり、なんて言うのかな、私の首根っこを押えて振り回すくらいの男が出てくればいいと思うんです」
茉莉
「無論よね」
明宏
「そういう人がでてくれば、ガッチリ四つに組んでと思うけど、どうしても最後は私の方が主導権を取っちゃう。そうすると全く嫌んなっちゃうの(笑)」
茉莉
「私も十年の結婚生活で一番それが悲しかったの。向うが馬鹿なのよ。仏文学者だけど、全く馬鹿なのよ。」

ところで発疹の進捗状況ですが、かゆいのが腕だったのが、おなかと足におりてきています。あとせなかとか。

混乱の淵へ

咳と頭痛、全身のかゆみが治まらず(とくに腕が)、会社を休む。午前中、前回のN病院にいって、発疹が出た旨を報告する。医者曰く、薬疹とは考えにくい、とのこと。でもこの薬を飲むのは止めて、かわりに別の種類のかゆみ止めの薬を出してもらう。

アレジオンアレルギン、調べてみたら、副作用で「発疹」って書いてあるよ。やっぱりこれのせいなんじゃないかしら。ちなみに今回出されたのはセレスタミン

午後、かゆみ止めを飲んで、うとうとして、グールド様のゴールドベルクの映像を譜面観ながら鑑賞して、うとうとして、森茉莉ムック読んで、うとうとしてたら一日が終わっていた。

発疹が出ると混乱しやすくなって、思考がネガティブな方向へしかいかないのです。こまった。

ロンドンバニー

きのう病院で処方された咳止め薬のうちのひとつ(おそらくアレルギー止め)が大当たりだったようで未明から全身に発疹が出てしまい、かゆくてかゆくて掻きまくって目が覚めた。これあれだ。2004年の皮フ科で悪化事件のときと同じかんじ。

調べてみたところ、以前のは「アレジオン錠」、今回は「アレルギン散」という、似たようなアレルギー止めの薬が入っている。これが原因かも!と思い、咳止めの薬は飲まないことにする。

ロンドンバニー共和国の青うさミミ。うさぎなんかごめんだ。けど……く、くそう、かわいいじゃねえか!

[写真]ロンドンバニー共和国のポスター

というわけで休日出社。「みんなの笑顔」(Sこっち談)と差し入れだけが唯一の救いです。

本日のフォトジェニック大賞。マダムからの差し入れ、麻布十番のほっぷしゅうくりーむを温めすぎたらこんな姿に。中身がぜんぶ流出!本体もちあげたら驚くほど軽かったよ!

[写真]シュークリーム